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明日への遥かな想いを 抱きしめて僕らは歩き出す

「虐殺器官」読了

今日の午後に「虐殺器官」読み終わりました。

5年前くらいにも読んだ気はしてたけど、すっかり内容忘れてたのでも一度読み直せたからよかったです。

しかも読んだ気っていうのも、ラストスパートでやっとこさ「あっ、この衝撃ラスト前読んだ気する」ってな感じで思い出すことができたものだったので、本編はかなり初見の感じで読むことができました。

今回は「ちゃんと読み終わったぞ自分、しかもかなり感動した部分あったぞ」てことを残すためにオープンな場で感想を述べていきたいと思います。

 

 

※以下、伊藤計劃虐殺器官」のネタバレを含みます※

 

本編の特に後半では以下の文章が何度か繰り返されていました。

痛かった。痛いことがわかった。
なのに、痛さは、感じなかった。(文庫版、p.269)

この文章は最後の方で、ジョン・ポールがクラヴィスに、自分ときみとはフラットだと話すシーンがありましたが、この文章踏まえての話でしたよね。

小説を読んでいてぼんやりと感じていたんですけど、伊藤さんの文章の段落のはじめの文章で端的に状況をあらわして、その後に具体的な状況や、詳細な部分を示すのめっちゃ好きです。例えば、

ぼくには、ことばが単なるコミュニケーションのツールには見えなかった。見えなった、というのは、ぼくはことばを、リアルな手触りをもつ実体ある存在として感じていたからだ。(p.42)

みたいな感じ。ひとつ文章だして、「…というのは」的な言葉でその前の文章を説明し始めるみたいな文章がわかりやすいのと、一人称なのにとても説明的に感じることができて好きでした。

そしてこの「一人称なのに、説明的」という部分が、先ほど述べた後半繰り返し部分、「痛覚マスキング」のように、その場所にいないのにその場所の情景、その感覚を味わってないのにその感覚を知ることができるみたいな状態になれるのがすごいと感じました。

 

言語化アホほど難しいです。なんとなく言いたいこと伝わってるでしょうか。

先程述べた「説明的」と感じるのは、読んでる中で、淡々とその状態・状況をたとえ列車が横転したような危機的状況であっても、ほんとに淡々と文章で表してるところです。危機的状況なことはわかるのに、でも危機的状況は感じない。

また、セリフに「!」がないところが余計にそうなのか、文章を通して「痛いと知ることはできても、痛いと感じることができない」(p.319)に似た感覚を感じることができました。

怒っていることを知ることはできても、怒りを感じることができない、みたいな感じです。

終始クラヴィスの主観的な文章、一人称で書かれてることもあって、すごい主観的な話であるのに、読んでる自分にとってはものすごい客観的な感じを味わうことができる。

ラヴィスのとっても主観的な夢の内容を知ることができるのに、読んでる自分は遠く離れたところからその状況を見ている感じになっていた。

知ってる国名や、身の回りにありそうな状況が描かれてるのに、自分事には思えない。

これが作中の「痛覚マスキング」と似た感覚になれて、ほんとにおもしろかったです。

 

多分また読み返したら、ここに重要なこと書いてあったやん、とか、何でここ見逃してるねん、みたいなところが出てくると思うので、それが出てくるまでまたちょっと置いといて、数年後とかに読み返したいです。

 

今週は以上です。また来週。